2009年12月27日日曜日

働かざるもの、飢えるべからず。感想


 本書の位置づけは、難しい。まず、誰に向けて書いた本なのか?が、「あとがき」になるまで明かされない。読みながら、ずーっと本書の位置づけについて考えていたのだが、想定している読者は狭いように思えてしかたがなかった。筆者が以前にブログで、誰が読んでいるのか知りようもないし、気にしてもしょうがないというような事を書いていたと思うのだが、そんな感じの書に思えた。「あとがき」により、ブログをやる人に向けて、自分なりに消化してフィードバックしてほしいと始めて種を明かされる。

 テーマは、情報化時代の生き方を提言するもので、「仕組み」進化論からの続編になると思う。産業革命はプロテスタントと植民地支配を生み出した。エネルギー革命は、資本主義とテロリズムを生み出した。そして誰も体験した事の無い世界において、情報化時代に相応しい新しい思想をぶつける試みだ。

 まずは、部分的に、これはうまく行くかどうか疑問に感じた点から、挙げてみたい。
1.相続税で全員を賄えるのか?年金と社会相続税の関係がちょうど対極にあるように、若者の人口比率が増えればベーシック・インカムの額が目減りするという点にある。今は最良の時期かもしれないが、ここ数十年で破綻する可能性が高いのではないか?
2.死んで残される資産のうち、不動産による資産は8割が無価値に近くなり、ベーシック・インカムの財源にはならないのではないか? バブル期でもあるまいし、買い手のいない土地は売れない限り財源にはならない。
3.農業は土づくりが基本であり、まじめに農業をしている人から見れば、まともな土地になるまで最低5年、世代を越えて土づくりを考えるぐらいの執着があるのではないか?こういう土地を相続税で、いちいち取り上げられていては、たまったものではありません。都会の土地感覚とは同列には扱えない気がした。
4.担い手のいなくなる仕事が発生するのではないか?世の中には、きつい・きたない・きけん、いわゆる3Kと呼ばれる仕事もあります。ベーシック・インカムを得た後に、果たして、これらの職に就こうという人がどれだけいるのか?

 わからなかった理論が
1.田舎は金持ちの住むところという理論。田中角榮の列島大改造から続く経済様式と、姥捨山に金をという話が、ごっちゃになってないでしょうか?自分の感覚からすると、ストレスを感じるぐらい人が密集している所に住んで、何が楽しいのか?突き詰めていけば、何のために生きているのか?って所に落ち着くのでしょうか?

 自分の宗教観は密教によるところが大きいです。しかし、私自身、悟りの世界など存在するとは考えておらず、悟りの世界に到達すれば幸せになれるのかどうか知る由もない。そういう立場でしか考える事ができないので、本書の目指すところは、大変難しいと感じます。スマナサーラ師との対談で、「全員が出家したら誰が托鉢するのか?」という質問をしているが、著者の目指すところは「全員を強制的に出家させる道」であると感じました。対談中、師は「社会で果たさなければならない義務がある者には、出家をさせようとはしない」と、こたえられています。なるほど、社会がベーシック・インフラを用意すれば、全員が悟りを開けるのかもしれません。悟りを開いた人だけで生活が成り立つのか?ここから先は、想像力が勝負です。ロボット三原則のようなクールな思想が必要とされているのでしょうか?

 法律家なら、情報革命後に相応しい法律、哲学者なら、情報革命後に相応しい哲学、小説家なら小説…というように、断片を描く事が期待されているのか?本書には、そのようなメッセージが垣間見れます。

 最近、国語が苦手で縁遠かった古典を読んだりしています。時を同じくして読んだのが「徒然草」。本書と連動して心に残った部分を引用して終わりとします。参考URL

140段
 身死して財殘ることは、智者のせざるところなり。よからぬもの蓄へおきたるも拙く、よきものは、心をとめけむとはかなし〔氣の毒〕。こちたく多かる、まして口惜し。我こそ得めなどいふものどもありて、あとに爭ひたる、樣惡(あ)し〔醜い〕。後には誰にと志すものあらば、生けらむ中にぞ讓るべき。朝夕なくて協(かな)はざらむ物こそあらめ、その外は何も持たでぞあらまほしき。

142段
 心なしと見ゆる者も、よき一言はいふ者なり。ある荒夷〔東國邊の荒い田舍武士〕の恐ろしげなるが、傍(かたへ)〔傍の者〕にあひて、「御子はおはすや。」と問ひしに、「一人も持ち侍らず。」と答へしかば、「さては物のあはれ〔人情の機微〕は知り給はじ。情なき御心にぞものし〔こゝでは唯ありませうの意〕給ふらむと、いと恐ろし。子故にこそ、萬の哀れは思ひ知らるれ。」といひたりし、さもありぬべき事なり。恩愛(おんあい)の道ならでは、かゝるものの心に慈悲ありなむや。孝養(けうやう)の心なき者も、子持ちてこそ親の志は思ひ知るなれ。世をすてたる人のよろづにするすみ〔匹如身、人の一物をも手に持たぬを云ふ〕なるが、なべてほだし多かる人の、よろづに諂ひ、望み深きを見て、無下に思ひくたすは、僻事なり。その人の心になりて思へば、まことにかなしからむ〔いとほしい、最愛の〕親のため妻子(つまこ)のためには、恥をも忘れ、盜みをもしつべき事なり。されば盜人を縛(いまし)め、僻事をのみ罪せむよりは、世の人の飢ゑず寒からぬやうに、世をば行はまほしきなり。人恆の産なき時は恆の心なし〔孟子に「無2恆産1而有2恆心1者惟士爲レ能、若レ民則無2恆産1因無2恆心1」とある。恆産は日常の生業、生活す可き職業〕。人窮りて盜みす。世治らずして凍餒(とうだい)〔こゞえる事と饑うる事と〕の苦しみあらば、科(とが)のもの絶ゆべからず。人を苦しめ、法を犯さしめて、それを罪なはむこと、不便のわざなり。さていかゞして人を惠むべきとならば、上の奢り費すところを止め、民を撫で、農を勸めば、下に利あらむこと疑ひあるべからず。衣食世の常なる上に、ひがごとせむ人をぞ、まことの盜人とはいふべき。

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